下関から始めた「九州線唱歌」の旅、
ひとつ手前の銀水から入ってきた、大牟田11時21分発八代行き鈍行列車、
JR九州815系電車の2両編成
ロングシートの車内
九州線唱歌 汽車 三八
長洲過ぎつつ有明の
海のあなたを見渡せば
溫泉嶽は靑空に
聳えて四千數百尺
明治のころは見えていたのでしょうか
九州線唱歌 汽車 三九
十年役に官軍が
十七晝夜たたかいて
賊壘おとしし田原坂
木葉驛より二十町
「十年役」というのは明治10年、西南戦争における田原坂の戦いのことですね
3月3日から3月20日まで、西郷軍と政府軍が激しい攻防を繰り広げました
昭和18年に信号場として開設、昭和40年に駅となったものであり、九州線唱歌の時代には存在していませんでした
九州線唱歌 汽車 四〇
山鹿の湯まで四里と聞く
植木を過ぎて忽ちに
來る都會は熊本市
市中におかるる六師團
昔は山鹿温泉へ行くのに植木駅から4里、16kmを歩いていったのでしょうか
現在、山鹿温泉へは熊本市内からバスで行く方が便利です
やがて熊本の市街地に入り、上熊本駅に到着します
乗客の大半が入れ替わります
九州線唱歌 汽車 四一 四二 四三
城は清正築造の
譽れ雄々しき跡なるを
兵火に罹りて今は唯
形見を殘す宇土櫓
見めぐる加藤社、本妙寺
花岡山に水前寺
かへりに休む公園は
名も白河の下河原
噴火の烟絕間なく
雲居に眺むる阿蘇山は
熊本市より道十里
遊心勃たり登山せん
阿蘇のほうから流れてくる白川を渡ります
宇土駅に到着
三角線が分岐します
九州線唱歌 汽車 四四 四五
宇土より三角半島を
貫く端は三角港
天草島は目の前に
語れば答ふるばかりにて
右に望むは有明海
島原半島程近く
左に見るは八代灣
不知火もゆるは秋半ば
三角線の開通は明治32年。作詞者の大和田建樹も三角線で三角港まで行ったようですね。
九州線唱歌 汽車 四六
有佐驛より十里ほど
山奥深く分け入れば
平家の子孫そのままに
今も遺れる五家の莊
明治のひとは10里の道のりをどうやって行ったのでしょうか
そして終点、八代駅、12時53分着
乗ってきた電車
九州線唱歌 汽車 四七
八代宮ある八代は
八代鮎の名產地
ゆあみを望む旅人には
日奈久温泉遠からず
九州線唱歌はこの先鹿児島まで行きますが、今回、ぼくはこの八代でいったん「九州線唱歌の旅」を中断します。
鉄道唱歌(明治33年)の時代は八代までしか鉄道は到達していませんでしたが、九州線唱歌(明治42年)の時代には鹿児島まで到達しています。
ただしこの当時は現在の肥薩線が鹿児島へのルートであり、現在の肥薩おれんじ鉄道(九州新幹線開業までの鹿児島本線)は昭和2年になって開通しました。
その肥薩線、令和2年(2020年)の水害により八代~人吉~吉松間が不通となっています。このうち八代~人吉間については2033年ごろまでに鉄道による復旧を行うことになりました。
しかし人吉~吉松間については復旧のめどは立っておりません。まあ被災前のこの区間の乗客は観光客か乗り鉄で、地元民はほとんど皆無だったし・・JR九州としてはこのまま廃止したいのが本音でしょう・・
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