電車は小倉を8時14分に発車します。
西小倉駅。しばらく新幹線の高架に沿って走ります。
この辺りは複々線となっており、旅客列車と貨物列車が走る線路が分けられています。石炭輸送や北九州工業地帯での大量の貨物輸送があった時代の名残でしょうね。
駅からは若戸大橋が見えます。
やがて工事中の線路が現れて
折尾駅に着きます
小倉に又も立ちもどり
ゆけば折尾の右左
若松線と直方の
道はこヽにて出あひたり
高架上を東西方向に鹿児島本線が通ってました。地上を南北方向に筑豊本線が通っており、北に行くと若松、南に行くと直方でした。
しかし今は大規模な改修工事中であり、完成した部分から段階的に供用が開始されています。既に地上にあった筑豊本線ホームは高架上に移り、駅構内での立体交差は解消されています。令和4年度に完成予定となっています。
折尾を出ると、遠賀川を渡ります。
列車は峠を短いトンネルで越えて、北九州都市圏から福岡都市圏へ。
最も香椎宮へは、奥に見える香椎線の蓄電池電車819系に乗りかえて香椎神宮で降りたほうが近いです。
走る窓より打ち望む
海の景色のおもしろさ
磯に貝掘る少女あり
沖に帆かくる小舟あり
鉄道唱歌37番のこの歌詞、香椎駅を過ぎたあたりの香椎潟の光景を歌っているものと思われます。
明治・大正期の地図を見ると鹿児島本線と西鉄貝塚線はまさに海沿いを走っており、中には干潟に築堤を築いて線路を引いている部分もあります。
この辺りでしょう。
今は埋め立てられて市街地となり、海など全く見えません。
西鉄貝塚線と並行して走ります。
多々良川を渡ります。
海側の右車窓には橋が三本重なって見えます。
一番手前が西鉄貝塚線のアーチ橋、その向こうに高いライトブルーの鉄橋が貨物専用の博多臨港線、その鉄橋の下に見える奥のアーチ橋が国道三号線の名島橋です
多々良川を渡ると、列車は高架線を走るようになります。
おとにきゝたる箱崎の
松かあらぬか一むらの
みどり霞みて見えたるは
八幡の神の宮ならん
地上を走っていたころは筥崎宮の真裏を鹿児島本線は通っていましたが、高架化された今、筥崎宮の杜はマンションの隙間からわずかに見えるだけになっています。
天の橋立三保の浦
この箱崎を取り添えて
三松原とよばれたる
その名も千代の春の色
箱崎松原は福岡の都市化に伴い伐採されたり、また枯死したりしてしまいました。千代どころか、鉄道唱歌出版から120年後の現在ではすっかりなくなっています。
列車は博多駅へ
博多駅。乗客のほとんどが入れ替わります。
織物産地と知られたる
博多は黑田の城のあと
川をへだてゝ福岡の
町もまぢかくつゞきたり
鉄道唱歌のこの歌詞、間違いがあります。
博多は城下町ではなく商都です。
博多から那珂川をへだてた西側が福岡で、こちらが黒田氏の城下町です。
明治初年までは博多と福岡は別の町という意識が強く、市制施行の際や鉄道駅をどちらの名称にするかで、激しい争いがあったそうです。
市名は「福岡」、駅名は「博多」に落ち着いて現在に至っています。
次の南福岡駅にも裏手には広大な電車の基地があります。
田植えの準備が進む筑紫平野を電車は走り、
まだ一日とおもひたる
旅路は早も二日市
下りて見てこん名にきゝし
宰府の宮の飛梅を
大宰府の飛梅を見に行った鉄道唱歌は、その後長いこと大宰府にとどまります。
千年のむかし太宰府を
おかれしあとは此處
宮に祭れる菅公の
事跡かたらんいざ來れ
醍醐の御代の其はじめ
惜しくも人にそねまれて
身になき罪をおはせられ
つひに左遷と定まりぬ
天に泣けども天言はず
地に叫べども地もきかず
涙を呑みて邊土なる
こゝに月日をおくりけり
身は沈めども忘れぬは
海より深き君の恩
かたみの御衣を朝每に
さゝげてしぼる袂かな
あはれ當時の御心を
おもひまつればいかならん
御前の池に鯉を呼ぶ
をとめよ子らよ旅人よ
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