カリバ旅行記

狩場宅郎のカリバ旅行記。温泉、鉄道、路線バスなど。

仲哀天皇殯殮地

長門の史跡を行く 12

 

山口県下関市の長府に来ています。

長府というのは「長門の府」、すなわち律令時代に長門国国府が置かれていました。

 

「長府毛利邸」まで歩いてきました

明治36年、毛利家14代当主の毛利元敏により完成したそうです。

 

しかし、中に入る予定は今日はないのですが・・・

 

その入り口に何やら空地があって、石碑が立っています

 

ここに律令時代、長門国惣社があったそうです。

 

律令制において国司が任国に赴任した際、国内の神社に参拝して回ることになっていました。国司が巡る順番をあらわしたのが一宮以下の社格です。

さきほど参詣してきた忌宮神社長門国二宮とされています。

 

時代が下り、平安時代になると国府の近くに総社を定め、そこに参詣することにより巡回を省くことになりました。

 

 

昔の長門国総社跡

 

総社跡を離れて、歩いていきます

 

そして雪交じりの冷たい雨が降る中、傘さして、

臨済宗のお寺、日頼寺の門前まで歩いてきました

 

「大雲山 日頼樿寺」の寺号標の前に、小さな石碑

 

仲哀天皇御殯殮地入口」と彫ってあります

日頼寺よりも、こちらの方を目指してやってきました

 

 

 

本堂

 

境内の一角から延びる通路

 

この奥が仲哀天皇殯殮地です

 

「殯殮」は『ひんれん』と読みます。

意味は『死者を納棺ししばらく安置して祀ること』だそうです。

 

 

雪交じりの雨が降る中、傘さして山道を登っていきます

 

日本書記によりますと、仲哀天皇熊襲征伐のために自ら出陣しました。長門豊浦宮(現在の忌宮神社)から橿日宮(かしいのみや、現在の香椎宮)に至ります。

そこで后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)が占いを行い、「熊襲より新羅を攻めよ」という神告を得ました。

 

しかし天皇はこれを信じず熊襲征伐を強行し、その結果敗退し、橿日宮に戻ったところで病にかかり崩御されました

 

古事記の流れとは若干違います。古事記では皇后の占いの直後に神の祟りによって崩御されています。崩御後の遺体の取り扱いについては記載がありません)

 

 

 

皇后と重臣の武内宿祢は、人民の動揺を恐れて天皇崩御を公表しませんでした。

武内宿祢により遺体は豊浦宮に戻され、そこに安置したそうです

 

仲哀天皇の遺体を安置したという「仲哀天皇御殯殮地」

この先、柵が閉まっていて進めません

 

この丘に仲哀天皇が仮安置されていたのでしょうか

 

周囲を回ってみます

 

ちなみに、仲哀天皇の御陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳とされています。

 

仲哀天皇殯殮地を離れてきました

 

道路の曲がり角の一角

ここに長門国国分寺があったそうです

現在は下関市南部町に移転し真言宗のお寺となっているそうです

 

国分寺とは聖武天皇が国家鎮護のために各国に建立したお寺ですね

 

 

 

 

 

国分寺跡を離れて、長府駅まで戻ってきました
ここから電車で帰ります

 

施設名 忌宮神社
所在地 山口県下関市長府侍町1丁目6‐35
電話  
FAX  
営業時間  
定休日  
料金  
交通 長府駅より徒歩40分
長府駅よりサンデン交通バス6分松原下車徒歩10分
バリアフリー情報
 
駐車場

 令和4年12月現在

 

 

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