カリバ旅行記

狩場宅郎のカリバ旅行記。温泉、鉄道、路線バスなど。

求院八幡宮

出雲国風土記の伝承地を訪ねて 16

 

 

出雲市斐川町の「求院八幡宮」(ぐいはちまんぐう)に来ています。

 

 

「誉津分王」(ほむつわけのみこ、以下「ホムチワケ」と表記)というのは第12代垂仁天皇の皇子です。母はサホビメ。

 

サホビメは垂仁天皇の后でありながら、謀反を起こした兄サホビコに従い、兄の屋敷で皇軍に攻められて焼死しました。

 

そして残されたホムチワケは、成人しても言葉を話すことができませんでした。

 

ある日、ホムチワケは空を飛ぶ白鳥を見て「あれはなんだ?」と言いました。父の垂仁天皇は喜び、天湯河(あめのゆかわ)に命じて白鳥を追わせました。

天湯河は出雲で白鳥をとらえ、宮中に持ち帰り、これを見たホムチワケは言葉をしゃべれるようになったといます。

 

その白鳥を捕らえた地が、ここ、求院八幡宮だとされています。

 

 

 

 

なお、以上は日本書紀でのお話。

 

古事記では、古志の国(後に律令制により越前・越中・越後に分割)で白鳥を捕らえましたが、それを見てもホムチワケが言葉を話すことはありませんでした。

占いによりホムチワケが離せないのはオオクニヌシの神祟だとわかり、出雲大社に参拝して言葉が話せるようになった、というのが古事記の話の流れです。

古事記での表記は「品牟都和気命・本牟智和気御子」)

 

 

手水舎

白鳥を古語で「鵠」(くぐい)といいました。

「求院(ぐい)」とは「くぐい」がなまったものだといいます。

 

 

手水鉢の上に桜の花びらが浮かんでいます

 

手水鉢には「天保六年」と彫ってあります

 

西暦では1835年、江戸時代の後期ですね。

ちなみに「遠山の金さん」こと遠山影元は、天保6年には小普請奉行を拝命していました。北町奉行になったのが天保11年のことです。

 

神門をくぐり、奥へ。

 



 

拝殿

 

本殿

案内板に御祭神の記述はありませんでしたが、八幡宮ですから八幡神、すなわち第15代応神天皇でしょうね。

 

 

境内の社日塔

そばの石柱には「天照大神 社日社」と彫ってあります。

 

注連縄が巻かれた社日塔

 

「遥拝所」と彫ってある石柱。

何の遥拝所かはっきりしませんが、方向からし伊勢神宮か?

 

石柱の裏には「皇紀二千六百年記念 求院婦人會」と彫ってありました。

皇紀というのは初代神武天皇の即位の年から数える記年法で、皇紀2600年というのは昭和15年のことです。

 

末社の「鵠神社」

鵠(くぐい)というのは先に申し上げた通り白鳥の古語です。

 

御祭神はイザナギイザナミ

それに白鳥を見て言葉を話せるようになったホムチワケと、白鳥を追いかけた天湯河ですね。

 

 

境内の奥のほうにもいくつか末社があります

 

赤い鳥居の奥

祠が二つ並んでいます

「木山神社」と「稲荷神社」

 

鳥居横の石柱は胡麻塩模様の花崗岩に掘ってあり読みにくいのですが、

「木山神社 吉備津彦命 素戔嗚命 

 稲荷神社 伊奴不須眞彦大狭別命 稲倉魂命

と彫ってあります。

 

 

吉備津彦は第10代崇神天皇の御代に日本平定のために派遣された四道将軍のひとり

素戔嗚命は八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオですね。

 

「伊奴不須眞彦大狭別命」は見たことないですが、「いなふすまびこのおおさわけのみこと」とでも読むのでしょうか?

 

 

「浮島神社」
御祭神はイザナギイザナミ・アマテラス

 

 

荒神

 

「寶殿神社」「石寶社」

御祭神は武内宿祢、スクナビコナ菅原道真だそうです

 

境内の奥は遊具が置かれた児童公園になってました。

 

 

では、求院八幡宮を後にして、次の目的地へ歩いて向かいます。

 

施設名 求院八幡宮
所在地 島根県出雲市斐川町求院731
電話 0857-72-9204(出西コミュニティセンター)
FAX 0857-72-9206(同上)
営業時間  
定休日  
料金 境内無料
交通 JR直江駅から徒歩30分
バリアフリー情報 境内段差無し
駐車場  



施設

 

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出雲市 求院八幡宮・鵠神社