ヤマトタケルの足跡をたどる 7
名古屋市緑区の氷上姉子神社を参拝してから、暑い中歩いて鳴海まで進んで来ました
名鉄のガードをくぐってしばらく行くと、そこにあったのは「東海道 鳴海宿高札場」
高札場とは江戸時代、幕府や藩からのお触れを民衆に伝えるために立て札に書いて掲示したものですね
上の2枚の高札には「名古屋縣」とあります。慶応4年(1868)年のもののようです。
江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の大政奉還が慶応3年10月、王政復古の大号令が出されたのが同年12月ですから、慶応4年は年号は「慶応」でもすでに明治新政府の施政下にあったわけですね。
当時の新政府はそれまでの藩はそのまま存続し、旧幕府直轄地を「府・県」として政府の地方行政組織に組み入れました。
名古屋は紀州徳川藩の領地のはずだが、何かの事情で「名古屋県」というのが置かれたのかな・・・と思って調べてみましたが・・・
名古屋県というのはあるにはあったが、それは明治4年の廃藩置県により紀州徳川藩を引き継いだものでした。
慶応4年に名古屋県が存在していたという情報は見つからず・・・よくわかりません。
そこから先に少し進んでいくと
ありました
成海神社境外摂社の「天神社」です。
成海神社は朱鳥元年(686年)この地にヤマトタケルを祀って創建され、戦国時代にここに鳴海城を築城するため現在地に遷座したそうです。
はるか古代、この天神山の前は一面の干潟でありました。
ヤマトタケルは東征の帰途、ここからミヤズヒメが住む、尾張国造の屋敷があった対岸の大高丘陵まで船で渡っていたそうです。
「成海神社 創祠 天神社」の社号標
石段登ると何やら注連縄が巻かれた岩
その前にあるのは手水鉢でしょうか、竹で蓋がされて柄杓が乗ってますが・・
鳴海城築城のため成海神社は現在地に遷座しました
すなわち「天神社」とはいっても、菅原道真公はあんまり関係ないようです。
鳥居の奥に小さなお社
手を合わせます。
御神木の切り株でしょうか
風化した案内板は消えて読めません。
天神社を出てきました。
その天神社の道路向かい、
なにやらお寺がありました。
庚申山圓道寺
曹洞宗のお寺ですが、庚申(かのえさる)を特別視する庚申信仰に基づくそうです。
山門
本堂
では、天神社を後にして
猛暑の中、先に進んでいきます。
そしてたどり着きました、目指していた成海神社
施設名 | 天神社 |
所在地 | 名古屋市緑区鳴海町矢切127-1 |
電話 | |
FAX | |
営業時間 | |
定休日 | |
料金 | 境内無料 |
交通 |
鳴海駅から徒歩5分 |
バリアフリー情報 | |
駐車場 | 無 |
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成海神社