和歌山線・紀勢本線 下井阪~和歌山~紀和 令和6年10月

鉄道唱歌で行く桜井線・和歌山線 6

 

和歌山県紀の川市紀伊国分寺跡を見学して、和歌山線の下井阪駅まで戻ってきました

 

王子から来た、下井阪12時9分発和歌山行き鈍行列車

 

鉄道唱歌の旅、再開します

 

 

 

紀ノ川を鉄橋で渡り、

 

船戸駅に停車

 

田井ノ瀬駅

 

車両基地の横を通っていき、

 

和歌山駅が近づいてきます

 

終点の和歌山、12時34分着

 

 

鐵道唱歌 關西 參宮 南海各線 四九

 

親のめぐみの粉河より

又乘る滊車は紀和の線

船戶田井の瀬うちすぎて

和歌山みえし嬉しさよ

 

鉄道唱歌では橋本~粉河間は未開業です

橋本駅から高野山まで徒歩で往復し、さらに工事中の線路を横目に橋本から粉河駅まで約21kmの道のりを歩いて、再び列車に乗ってきたわけで・・

そりゃ和歌山が見えたときのうれしさもひとしおだったでしょう

 

しかし・・・

ここ和歌山駅は、鉄道唱歌和歌山駅ではないのです・・・

 

鉄道唱歌の時代、阪和線紀勢本線はまだ未開業で、あるのは紀和鉄道(現 和歌山線)だけでした。

和歌山線田井ノ瀬駅を過ぎると、現在は南にカーブして和歌山駅に至りますが、当時はまっすぐ西に進み終点の旧和歌山駅に達していました

当時は名実ともに和歌山の中心ターミナルでした

 

しかし明治36年南海鉄道(現 南海電気鉄道)が和歌山市駅を開業させて大阪まで直通させました。これに伴い紀和鉄道も路線を和歌山市まで延伸させて、旧和歌山駅はターミナルとしての地位を低下させます。

その後大正13年国鉄紀勢西線(現 紀勢本線)の駅として東和歌山駅が開業、昭和5年には阪和電気鉄道(現 阪和線)が大阪から東和歌山まで直結し、東和歌山駅が和歌山のターミナルとしての性格を帯びてくるようになります

 

昭和43年には駅名改称が行われ、旧東和歌山駅和歌山駅、旧和歌山駅紀和駅となりました。昭和47年には和歌山線の旅客列車も和歌山駅に乗り入れるようになり、田井ノ瀬~紀和間の線路は廃線となっています

 

すなわち今の紀和駅が当時の和歌山駅です。なのでここから紀和駅まで行って「鉄道唱歌で行く桜井線・和歌山線」の旅、締めくくります

 

和歌山駅の7・8番ホーム

写真左の今乗ってきた和歌山線の電車から、ホーム右側の紀勢本線和歌山市行きの電車に乗り換えます

 

12時45分発和歌山市行き鈍行列車

3扉ロングシートの車内

 

阪和線が分かれていきます

 

堂々とした複線に長編成の電車が走る阪和線に比べて、今乗ってる単線で2両だけの電車は見劣りします

しかし今乗っている路線は「紀勢本線」であり、本線です。これに対して阪和線は、国鉄時代は関西本線の支線扱いでした。

 

そして今乗ってきた和歌山線の線路からも分かれていきます

 

そして高架線に入りました

紀勢本線の和歌山~和歌山市間は平成20年に高架化工事が完成しています

 

 

12時49分、紀和駅に到着

ここで降りて、和歌山市駅の方へ走っていく電車を見送ります

 

紀和駅
昔は和歌山市の中心ターミナルでした。

今は2両分の片面ホームしかない棒線駅です

 

紀和駅

駅舎は無く、高架下の階段から直接ホームに上がります

もちろん無人駅です

 

かつてあった駅舎は高架化の際に取り壊されています

 

かつての和歌山駅の広大な敷地は、公園として整備されています

 

 

かつての和歌山駅駅前通

 

既に閉店しているらしいさびれた喫茶店が印象的でした

 

明治のここが和歌山市のターミナルだった時代、鉄道唱歌の作詞者である大和田建樹が見たのはどんな光景だったのでしょうか

さぞかし大勢の旅人で賑わっていたものと思われます

 

鐵道唱歌 關西 參宮 南海各線 五〇 五一 五二 五三

 

紀の川口の和歌山は

南海一の都會にて

宮は日前国懸

旅の心の名草山

 

紀三井寺より見わたせば

和歌の浦波しづかにて

こぎゆく海士の釣船は

うかぶ木の葉か笹の葉か

 

蘆邊のあしの夕風に

散り來る露の玉津島

苫が島には燈臺の

光ぞ夜は美しき

 

密柑のいづる有田村

鐘の名ひゞく道成寺

紀州名所は多けれど

道の遠きを如何にせん

 

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