この先「熊襲の穴」です。
熊襲とは古代、南九州に住んでいたといわれる民族です。大和朝廷の支配に従わず、このため第12代景行天皇は皇子のオウス(小碓命)を派遣します。
おりしも熊襲を束ねるクマソタケル(熊曽健)の兄弟は宴会を開いていました。オウスは女装して女中を装ってクマソタケルの兄弟に近づき、討ち取りました。
この時、クマソタケルの弟は、討たれる寸前
「西国に我らより強い者はいないが、大和にはこんな強いものがおったとは・・我らのタケルの名を献上しよう。これからはヤマトタケル(倭建命)と名乗れ!」
と言いました。
こうしてオウスはヤマトタケルと改名し、その後は東国の蝦夷征伐に出征することになります。
(「熊曽健」「倭建命」は古事記での表記)
熊襲が住んでいて宴会を開き、ヤマトタケルが討ち取ったという「熊襲の穴」の入り口
注連縄が巻かれた謎の岩
案内板には
「熊襲の首領、川上梟帥(かわかみたける)が女装した日本武尊に誅殺されたところ」
とあります。
古事記ではクマソタケルの兄弟となってますが、日本書紀では「熊襲の首領の名はトロシカヤ(取石鹿文)と言い、またの名を川上梟帥という」と記述されており、この川上梟帥がヤマトタケルに打ち取られます。
洞窟のそばに照明スイッチがありました。
スイッチを入れて
洞窟の中に入ります。
入り口の天井は低く、かがまなければ入れません。
中の照明スイッチは入れましたが、暗くて足元はよくわかりません
フラッシュ炊いてみました
足元の岩が階段状に削られています。
注意深く登って中に入ると
中に広い空間が広がっていました。
天井からは水滴がしたたり落ち、それが洞窟内に反射して幻想的に響き渡っています。
かつてここで伝説の英雄マトタケルの名が生まれた、神話の舞台なのですね。
熊襲の首領はどんな気持ちでその名を献上したヤマトタケルに討たれていったのでしょうか・・。
洞窟内の案内板は、近くの旅館の石原荘の経営者が書いたもののようです
しかし、ペンキでベタベタ描かれた模様は、古代からの伝承が残る地にはあんまりふさわしくないと思う
なんでも何か有名な美術家が描いたものだそうだが・・・
古代からそのまま残っている壁画とかなら貴重なものだと思うが、
こんな安っぽい「現代アート」とかで伝承が伝わる地を汚してほしくないと、ぼくは思う。
動画にとってみました
したたり落ちる水滴の音が洞窟内に反射する響きをご鑑賞ください。
で、またかがんで、外に出てきました。
照明スイッチを消して、元の道を戻って駐車場まで出てきました。
駐車場の奥に、何やら謎のスペース
医師のベンチの奥に、何やら大きな岩があり
その岩の手前で水が湧き出していました。
温泉かな・・・と思って手を入れてみたけど、ただの水のようでした。
下の道路に降りてきました
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鹿児島観光サイト 熊襲の穴