鹿児島県、薩摩川内市の新田神社に来ています。
境内から続く通路
この先、新田神社のご祭神であるニニギの御陵である可愛山陵(えのみささぎ)があります。
ニニギの御陵としては宮崎県西都市の西都原古墳群の中にある男狭穂塚など、他にも伝えられている地がありますが、明治7年に明治政府によって可愛山陵がニニギの御陵と定められました。
西都原の男狭穂塚は陵墓参考地とされています。
通路を歩き、石段登っていくと
可愛山陵が見えてきました。
可愛山陵
皇室祖先神の陵墓なので宮内庁が管理しています。
木々の隙間から新田神社の社殿が見えました。
では、可愛山陵を後にして
また新田神社の境内を通り、長い長い石段を降りて、石段の下まで降りてきました。
さて、神社の案内図を見ると、ふもとの駐車場のそばにも末社があるようです。行って見ます。
ここから入っていくと
ウケモチは月の神ツクヨミに斬り殺された食物の神です(日本書紀の記述による)
ウケモチの遺体からは様々穀物が生じて、これを見たアマテラスは「これは日本に暮らす人々の糧となるものだ」と喜んだと云います。
また、何やら鳥居の奥に石碑のようなものが並んでいたりもしましたが・・・
ここらで引き返し、新田神社の建つ神亀山に沿って歩き出します。
亀の形をしているので神亀山(しんきさん)というそうです。
しかし、歩いているうちに、また雨が降り出しました。雨の中、傘さして歩いていきます。
そして、団地の一角にあったのが
神亀山の頭の部分にある「端陵」
ニニギの后であるコノハナサクヤヒメの御陵だそうです。
しかし、柵が閉まっており、中には入れません。
横の遊歩道に入り、少し歩きますと、赤い鳥居が見えてきました。
柵の向こうにある、草むらの中の赤い鳥居。
この奥がコノハナサクヤヒメの御陵である端陵でしょうが、中には入れません。
また戻って
神亀山に沿って歩いていきます。
すると、見えてきました。
神亀山の首の部分に当たる「中陵」
ここはニニギの御子であり、海幸山幸の神話で知られる海幸彦のホデリの御陵だそうです。
柵の向こうに小道が続いていますが、中に入ることはできません。
ホデリの弟であり山幸彦であるホオリが現在に続く皇室の祖先となりました。
では、ここで神亀山を離れて歩いていきます。
しかし、そのうちに雨風が強くなってきました。雨はともかく、風が強くて傘が差せなくなってきました。
四苦八苦しながら、川内駅を降りて最初に来た、参道入り口一の鳥居の近くまで何とかたどり着きました。
そこには赤い鳥居があります。
ここも新田神社の末社です。
「九樓神社・守公神社」、ご祭神は「甕速日神」(みかはやひのかみ)・「熯速日神」(ひはやひのかみ)。
日本創世の時代、イザナミは火の神カグツチを産みましたが、そのために焼け死んでしまいました。これを悲しんだ夫のイザナギは、カグツチを斬り殺しました。
この時ほとばしったカグツチの血から生まれたのがミカハヤヒとヒハヤヒです。
ミカハヤヒとヒハヤヒに続いて生まれたのがタケミカヅチで、後に国譲りの神話で活躍することになります。
今は小さな祠があるだけの神社で新田神社の末社となっていますが、かつては薩摩国総社であったと推定されているそうです。。
しかしだんだん雨が激しくなってきました。
この近くにはこれも新田神社の末社でオオクニヌシを祀る神社があるようですが、もうそこまで行く気力もなく、川内駅に向かいます。
そんな感じで、どうにかこうにか川内駅まで戻ってきました。
駅に入ると、急に雨が激しくなりました。
「旅名人の九州満喫きっぷ」を見せて改札を通り、 肥薩おれんじ鉄道の乗り場までやってきました。
雨の中、天草灘を見ながら、ここから鈍行列車を乗り継いで帰ります。
旅名人の九州満喫きっぷ2日目、今回の薩摩川内行き、完結です。
お読みくださいました皆様、ありがとうございました。
施設名 | 可愛山陵 |
所在地 | 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 |
電話 | 0996-22-4722(新田神社社務所) |
営業時間 | |
定休日 | |
料金 | 境内無料 |
交通 | 肥薩おれんじ鉄道 上川内駅から徒歩25分 |
駐車場 | 新田神社駐車場を利用 |
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鹿児島県神社庁 可愛山陵