今日(5月下旬)は所要あって、クルマ飛ばして佐賀まで行きました。
その帰り道・・・
ここは大宰府政庁跡、駐車場に車止めてきました。
広大な敷地に、当時の官庁跡の礎石が並んでいます。
今は歴史公園としてきれいに整備されている大宰府政庁跡の一角にある歌碑
あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
薫ふ(におう)がごとく 今さかりなり
大宰少弐小野老朝臣(だざいしょうに おののおゆあそん)が天平元年(729年)に太宰府に着任した時、宴席で披露した歌だそうです。
さてそれでは、大宰府政庁跡を離れて
道幅広く交通量も多い国道三号線を横切って、
グーグルマップを見ながら「榎社」目指して歩いていきます。
ここは裏手のようなので、表に回ります。
で、この「榎社」とは一体何なのか、というと・・・
「菅公館址」と彫ってある石碑
そう、ここは太宰府天満宮のご祭神である菅原道真が、大宰府に左遷されてきた後、過ごした屋敷があった場所だと伝えられています。
正門に回ってきました。
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不出門
一從謫落在柴荊
萬死兢兢跼蹟情
都府樓纔看瓦色
觀音寺只聴鐘聲
中懐好逐孤雲去
外物相逢滿月迎
此地雖身無檢繋
何爲寸歩出門行
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門を出でず
一たび謫落して 柴荊に在りて從り
萬死兢兢たり 跼蹟の情
都府樓は纔かに瓦色を看
觀音寺は只 鐘聲を聴く
中懐は好し 孤雲を逐うて去り
外物相逢うて 滿月迎う
此の地身に 檢繋無しと雖も
何爲れぞ寸歩も 門を出でて行かん
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門を出ない(で思う)
一たび配流され粗末な家に住んで以来、罪は万死にあたる思いで恐れおののき、ただひたすら謹慎してきた。
都府楼(大宰府政庁)はわずかに瓦の色を眺めるのみ、観音寺も鐘の声を聴くだけである(訪れたこともない)。
心の中はただひとひらの雲を追っていくようだが(都への思いが募るが)、外部にに対してはただ満月のような心を持ちたいと思う(不平を抱かないようにしたいと思う)。
この地では束縛を受けることはないといえども、(左遷された身の上なので)どうして一歩たりとも門の外に出ることができようか。
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(疲れた・・・簡単にワープロ変換できない字ばかりだもん・・・)
都で藤原時平との 政争に敗れ、大宰員外卒(だざいいんがいのそつ)として左遷されてきた道真公
しかし太宰府では何の権力も無く、政務につくことも許されず、俸給も与えられず、ここ「榎社」の地に構えた屋敷では衣食にも事欠く厳しい生活を送りました。
道真公はこの地で外出することもなく、大宰府政庁の青い瓦を覗き見て、観世音寺の鐘を聴きながら何を思ったのでしょうか。
参道の真ん中に、注連縄が張られた磨かれた四角い石
なんでしょうか?分かりません
拝殿
ご祭神は調べてもわからなかったのですが、おそらく道真公でしょうね。
本殿
本殿の裏には参道にもあった磨かれた石がここにもあり、その奥に末社が二つ並んでいます。
正面にある末社
「浄妙尼社」と扁額がかかっています。
浄妙尼(じょうみょうに)とは、ここにあった屋敷で道真公の世話をしていた老婆です。
浄妙尼は道真公の境遇を憐れみ、餅を作って差し上げました。道真公はこの餅をとても気に入りました。
道真の死後、浄妙尼は餅に梅の枝を添えて道真の墓前に供えました。
これが現在、太宰府天満宮の参道で売られている「梅ヶ枝餅」の由来だそうです。
そして、もう一つの末社
こちらのほうは、正体が何なのか、分かりません
中にはレリーフの石仏が祀られていました。
境内には紫陽花がきれいに咲いていました。
何やらよくわからぬ石碑がありますが・・
ここらで榎社を離れて、またもとの大宰府政庁跡の駐車場に戻ります。
その途中、
道路の脇、ここにも歌碑と、何やら礎石のようなものが・・
大君(おおきみ)の 遠の朝廷(みかど)に あり通ふ
島門を見れば 神代し思ほゆ
(天皇陛下の遠く離れた政庁に通じている海峡を見ると、神代の昔が思われる)
柿本人麻呂が筑紫の国に行くときに、海路において作った歌だそうです。
と、いう感じで、またクルマ飛ばして帰りました。
施設名 | 榎社 |
所在地 | 福岡県福岡市朱雀6丁目18‐1 |
電話 | |
営業時間 | |
定休日 | |
料金 | 境内無料 |
交通 | 西鉄二日市駅または都府楼前駅より徒歩15分 |
駐車場 | 無 |
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