鉄道唱歌で行く東海道本線 5 / 青春18令和2年春紀行 二日目
走水神社(はしりみずじんじゃ)
ヤマトタケルがここから房総半島に向けて海を渡るとき、村民に授けた「冠」を納めた場所だそうです。
ヤマトタケルに限らず、三浦半島から海を渡って上総の国に至るのが古代東海道のルートでした。
徳川家康が江戸の町を造営する以前の関東平野は一面の干潟と低湿地帯、そのようなところを回っていくよりここから海を渡っていったほうが楽だったんでしょうね。
境内にあった記念碑
航海の安全を祈って昭和50年に建立されたそうです。
ヤマトタケルがここから房総半島に向かって船出し、海峡の真ん中に来たとき急に海が荒れだし、船は沈みそうになりました。
この時、ヤマトタケルの妻のオトタチバナヒメは海中に身を投じ、海の神に自らの身を捧げました。
そして海は治まり、ヤマトタケルは房総半島にわたることができたそうです。
手水舎
そばには河童の彫像
手水舎の横には「お砂倉」
オトタチバナヒメは元はヤマトタケルが出港したとされる御所ヶ崎に祀られていましたが、明治42年に走水神社に合祀されたそうです。その元のオトタチバナヒメを祀っていたお社の海岸のお砂だそうです。
では、本殿へ続く石段を登っていきます。
御神木と、その向こうにいくつか石碑が立っています。
石碑に刻まれた碑文
弟橘媛命
妾は皇子の御為に よろこびて今こそ此の浦に身を捧げなむ はようつとめ果し大君の御心安んじさせ給え
弟橘媛よ 汝の願い心し吾が胸にのこりなん 永久に安かれとただおろがまむ
オトタチバナヒメが海に身を投じる前、ヤマトタケルと語り合った言葉でしょうか。
平成3年と比較的最近の建立のようだが、
しかしオトタチバナヒメの行為は自殺には違いないし、あんまり美化するのも危険だと思う。
包丁塚というもありました。
「ヤマトタケルの平定の旅の間、久米直(くめのあたい)の先祖のナナツカハギはずっと料理人として仕えて従っていた」
という記述があるが、これと関係あるだろうか?
さらに奥は駐車場になってましたが、その一角にまた大きな石碑
こちらのほうは「大日本國防婦人會」というのが昭和10年に建立したもののようです。何でも「お国のために」亡くなった女性を偲んで、オトタチバナヒメの故事にちなみここに建立したもののようです。
では戻って、また石段を登り
拝殿、手を合わせます。
脇には境内の案内図が掲示してありました。
奥の本殿、
海に身を投じ犠牲となったオトタチバナヒメと、
今ここに仲睦まじく鎮座されているのでしょう。
走水神社
神奈川県横須賀市走水2‐12‐5
046-844-4122
「走水神社」停留所下車徒歩2分
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